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2017年12月 7日 (木)

平昌五輪、北朝鮮頼みが招く北朝鮮リスク

 1988年のソウル五輪では、ソ連の参加が大きな焦点になっていた。韓国と北朝鮮は長い間勢力を誇示する競争を繰り広げてきたが、韓国の経済成長が軌道に乗ってきた1980年代、南北の差は、はっきりし始めていた。

 そうした状況で、共産圏の盟主であるソ連がソウル五輪に参加することは、北朝鮮にとって決定的なダメージであった。金日成主席はゴルバチョフ書記長に、参加しないよう要請したが、拒否されたと言われる。ソウル五輪では、日本やアメリカはヒールであり、ソ連には、観客から声援が送られていた。

 ソ連が崩壊した後も、その中心であるロシアは、相変わらずスポーツ大国である。韓国でソウル五輪以来、30年ぶりに開催されるオリンピックである平昌五輪でロシアは、ドーピング問題により、国としての参加が禁止されることが決まった。

 ロシアが参加しないことは、それでなくても盛り上がらない平昌五輪に、また大きな難題を抱えたことを意味する。

 ドーピングで汚染された疑いのある選手が参加することは、大会の価値を下げることになる。その一方で、注目の選手が参加しないことも、大会の価値を下げることであり、平昌五輪は、ジレンマを抱えたまま、状況は厳しくなる一方だ。

 参加といえば、北朝鮮問題も大きい。北朝鮮は唯一自力で出場権を獲得したフィギュアスケートのペアで、出場の意思を示さないまま、期限が過ぎた。これにより北朝鮮は、フィギュアスケート・ペアの出場権を放棄したことになる。

 まだ特別枠での出場の可能性があるので、出場の可能性がなくなったわけではない。出場するにしても少人数の選手団になるだけに、逆にギリギリまで、態度表明を伸ばすことが可能だとも言える。

 そもそも北朝鮮は、出場の意思を十分に持っていたのではないか。4月には、平昌五輪の会場である江陵で開催された女子アイスホッケーの世界選手権、ディビジョン2・グループAの大会に、北朝鮮も参加している。同じ時期に平壌で開催された女子サッカーのアジアカップの予選に韓国も参加し、平壌に韓国の国歌が流れ、国旗が掲揚された。2013年に平壌で開催された重量挙げのアジアクラブ選手権で一度あるものの、これは極めて異例のことである。

 孤立を深める北朝鮮にとって、スポーツは軍事的な問題でなく、自国の存在をアピールできる数少ない機会である。金正恩体制になった後も、国防委員会所属でスポーツ担当機関である「国家体育指導委員会」を新設するなど、力を入れてきた。

 そうした中、5月に韓国では文在寅政権が誕生した。文政権は、北朝鮮に平昌五輪への参加と、一部種目の南北統一チームの結成などを呼び掛けた。

 文政権はもともと、北朝鮮に融和的な人たちの支持を受けて当選を果たしたものの、ミサイル発射や核実験などで、北朝鮮には厳しい態度を取らざるを得ない。平昌五輪は、北朝鮮に融和的な態度を示すことができる数少ない機会である。また北朝鮮の参加で、盛り上がりに欠ける平昌五輪の関心を高めることも期待されている。

 しかも、開幕まで2カ月余りとなった先月29日、北朝鮮がミサイルを発射した。オリンピック、パラリンピックが終わる318日までの間、北朝鮮が新たな挑発行為に出れば、緊張がますます高まるし、挑発がなければないで不気味な沈黙として、落ち着かない状況が続くに違いない。だからこそ、大会の安全な開催のために、北朝鮮の参加を求める声も大きい。

 国際社会で孤立を深めている北朝鮮にとって、平昌五輪は、歓迎されている数少ない機会であると同時に、最高のカードになっている。

 北朝鮮の権力者が何を考えているか、読めない部分はあるものの、平昌五輪そのものに対する妨害行為は、致命的な孤立を招くだけに行わないと思う。

 それでも、参加の可能性を残しながら、揺さぶることで、何かを得ようとする可能性は十分ある。北朝鮮の平昌五輪の参加をより切実に願っているのは、北朝鮮よりも韓国の方であるからだ。韓国は北朝鮮に足元をみられている状況だ。

 文在寅政権にとって、北朝鮮参加への思いが強いだけに、かえって平昌五輪開幕ギリギリまで、北朝鮮に揺さぶられるリスクを負いそうな感じがする。

 

 

2017年11月 2日 (木)

韓国人の聖火へのこだわり

 平昌五輪開幕100日前となった111日、聖火が韓国に上陸した。仁川国際空港に到着したチャーター便から降りる、フィギュアスケートの金メダリストであるキム・ヨナと、所轄官庁である文化体育観光部の都鍾煥長官が手にした聖火を、李洛淵国務総理が出迎えるという、超ⅤIP級の歓待ぶりだ。

 韓国女子フィギュアの有望選手であるユ・ヨンが、韓国内での最初の聖火ランナーになり、小平奈緒との金メダルをかけた対決が注目される女子スピードスケートのイ・サンファや有名芸能人らが初日の聖火ランナーになった。

 聖火リレーの距離は、2018年の開催にちなみ、2018キロ。聖火ランナーの数は、北朝鮮も含めた人口、約7500万人を象徴して、7500人と、韓国らしいこだわりである。

 韓国人は聖火に関心が高いので、大会の広報、雰囲気の盛り上げには一定の効果があるだろう。ただ、懸案の入場券の売り上げに効果があるかは、疑問である。

 オリンピックで聖火リレーが行われたのは、ナチス・ドイツの政権下で開催されたベルリン五輪であった。この大会に、日本選手団の役員として参加した李相佰は、聖火リレーに強い感銘を受けた。

 以前も取り上げたことがあるが、李相佰は戦前、早稲田大学に留学した韓国人で、早稲田大学ではバスケットボール部の主将や監督を務めた。英語が堪能で、アメリカのバスケットボールの最新の理論を日本に持ち込む一方で、日本バスケットボール協会の創設にも貢献した。バスケットボール協会創設後は、協会の常務理事とともに、大日本体育協会(現日本体育協会)の理事にもなり、ベルリン五輪には、本部役員として参加した。

 1940年に招致が決まった東京五輪では、組織委員会の競技部参与に就任。早稲田大学では津田左右吉に師事した歴史学者でもある李相佰は、ベルリンでの感動から、聖火をアテネからシルクロードを通る聖火リレーを計画していたという。1940年の聖火リレーは、戦争により幻に終わった。

 李相佰は解放前に祖国に戻り、解放後は、大日本体育協会の役員として培った人脈を基に、韓国のIOC(国際オリンピック委員会)加盟に尽力した、「韓国のクーベルタン」とも呼ばれる人物だ。

 聖火にこだわりを持つ李相佰は、韓国の国体である全国体育大会で、1955年から聖火リレーを行うようにした。採火の場所は、民族の始祖と呼ばれ、神話の存在である檀君が祭祀を行った場所とされる、仁川に隣接した江華島の摩尼山の山頂にある塹星壇で行い、それは今日でも続いている。さらにここ十数年の全国体育大会での聖火の最終点火は、オリンピックばりの派手なものになっている。

 聖火にこだわりが強い分、悲劇を含め、聖火にまつわる、様々なエピソードがある。

 1988年のソウル五輪では、最終点火者が3人と凝ったものになったが、点火の際、先に放たれていた鳩がまる焦げになったのは有名な話だ。

 民主化に向かいつつあったものの、まだ軍事政権の時代であったソウル五輪の聖火リレーでは、リレーのコースの周辺にあったバラックは強制的に壊された。そして住んでいた人は、古代人のように、穴を掘って暮らしたという。

 2002年に釜山で開催されたアジア大会では、参加各国に、それぞれの国で採火した火を持って来るように求めた。アジアの火を一つに集めるという趣旨だったが、独自に採火しなければならない参加国のオリンピック委員会には、不評だったようだ。

 2014年の仁川アジア大会では、火と水の調和ということで、聖火台が噴水の中央に火が灯る構造になっていたが、大会の途中で火が消えるハプニングがあった。

 しかも聖火の最終点火者の1人が、女優のイ・ヨンエであったことを問題視する人が多く、大会のプレスセンターで行われた閉会式の記者会見では記者からは、閉会式に関する質問はほとんど出ないで、開会式の聖火点火者がイ・ヨンエであったことに、質問や意見が集中したという話を、現場にいた記者から聞いた。

 果たして平昌五輪の聖火では、どのようなエピソードを残すだろうか。開会式会場の聖火台はカバーに覆われ、点火の方式などはベールに包まれている。

 ただ一つ推察できるのは、最終点火者は、キム・ヨナだろうということだ。韓国の冬季スポーツでは唯一と言っていいほどの世界的な知名度により、五輪招致に果たした役割、五輪広報での貢献などを考えれば、他の人物は考えにくい。もっとも、聖火には凝りたいお国柄だけに、思わぬ人物が登場するかもしれないが、それはそれで、ハプニングと言っていいのではないか。

 

2017年10月27日 (金)

日韓それぞれのドラフト会議

 今年もドラフト会議が終わった。注目の清宮幸太郎(早稲田実)は7球団の競合の末、日本ハムが交渉権を獲得した。

 清宮は、入学式から数日後の春季都大会3回戦の駒大高戦から、常に多くの観衆とメディアに囲まれながら試合をし、結果を出してきた。はっきり聞き取りやすい話し方で、ポイントを外さない受け答えなど、私も取材者の1人として、感心することが多かった。それにしも、高校の野球部生活は短いなと感じる。プロの世界での活躍を期待したい。

 ドラフト会議は、プロもアマチュアも、その成り行きを固唾を呑んで見守るという意味では、日本の野球、最大のイベントと言っていい。ドラフト会議の盛り上がりを支えているのは、プロ野球人気もさることながら、高校野球をはじめとするアマチュア野球への関心の高さだろう。これは、日本独特のものではないだろうか。

 韓国にもドラフト会議はあるが、日本のように注目されることはない。それ以外にも、制度面も含め、日本と異なる点も多い。

 制度面で一番異なるのは、各球団のフランチャイズ地域の高校の選手(出身者を含む)を1人、優先的に指名できる、地域縁故指名の制度があることだ。

 1982年に韓国にプロ野球が誕生したころ、高校野球の人気が非常に高かった。プロ野球は、全斗煥政権下、政府主導で始まったが、行政当局は、この高校野球人気を徹底的に利用することを考えた。それが地域縁故指名のもともとのはじまりであった。

 プロ野球が始まり、人気が高まるのと反比例して、高校野球人気はどんどん落ち込んでいった。韓国の高校野球部は、学校からの支援がほとんどなく、部員の親が、監督の給料をも賄っている状態で、慢性的に資金難である。そのためプロ野球の各球団は、地元の高校チームを支援している。現在の地域縁故制度は、その動機付けという側面がある。

 その分、韓国の高校野球では、プロの意向を無視できない。この夏、U18ワールドカップで韓国は日本を破り準優勝した。これは、優勝した2008年の大会以来の好成績である。その要因となったのが、ドラフト会議の日程変更であった。

 地域縁故指名は6月に行われたが、全体のドラフト会議は、例年なら8月半ばだが、今年はU18の大会が終わった直後の911日に行われた。そのため選手たちは、少しでも上位で指名されるよう、プレーにも力が入った。

 しかも、昨年までのようにドラフト会議の後だと、プロ球団の中には、指名した選手が故障するのを恐れて、選手起用にも干渉することがあったようだ。そうしたしがらみがないことも、好成績の要因とも言われている。

 また、野球に限らず、バスケットボールなどでもそうだが、韓国のドラフト会議で、最も違和感があるのは、プロ志望届を出した人は、原則としてドラフト会議の会場に来ることになっていることだ。今年のドラフトでも、多くの選手が、学校のユニホームを着て参席していた。そして、指名された選手は、指名球団のユニホームを着て、記念写真に応じる。

 しかしドラフト指名は、あくまでも交渉権獲得であって、入団が決まったわけではない。そのうえ、指名されなかった選手は、寂しくさらし者になる。

 日本のプロ野球は、ごく限られた、特別な選手がいくところというイメージがある。それに対して韓国では、高校のチーム数は74であるのに対し、各球団は、地域縁故指名の1人を加え、11人、10球団なので、計110人が指名される。高校の野球部員は、プロに行くことを前提にしている。そのうえメディアも、指名が予想される選手のいる学校の記者を派遣するなど、面倒なことはしない。そこで選手の方を呼んでいるわけだが、選手の側の立場の弱さを感じる。

 なお、ドラフト指名の選手の数が多いのは、韓国には兵役制度があることも影響している。

 プロの世界は入ってからの競争がさらに激しい。上位、下位問わず、日韓それぞれのドラフト指名選手から、球界を盛り上げるスター選手が育ってほしいものだ。

2017年10月13日 (金)

国民打者・李承燁の引き際

 韓国のプロ野球は103日に正規シーズンが終わり、その年のチャンピオンを決めるポストシーズンが行われている。

 秋夕(旧盆)の連休のさなかではあったが、3日のシーズン最後の試合で最も注目されたのが、サムスンの試合だった。「国民打者」と呼ばれた李承燁の現役最後の試合だったからだ。

 日韓の通算本塁打は626本。2003年には王貞治の記録を抜き、当時のアジア記録であった年間の56本の本塁打を放ち、国民的なスター選手になった。

 さらにシドニー五輪や北京五輪、第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)など、国際試合での活躍で、国民的ヒーローの座を確かなものにした。

 また李承燁は、悪い評判が全くと言っていいほどないのも特記すべきことだ。マスコミなどとの関係が円滑なのが、その理由の一つである。私も、シドニー五輪やアテネ五輪のアジア予選の前に、つてを頼りに、李承燁の取材を申し込んだところ、絶対に無理との答えだった。しかし現地に行き、本人に直接頼むと、あっさり応じてくれた。

 李承燁という選手の存在は、韓国のプロ野球が、野武士のような選手が集まった草創期から、産業化が進む今日への橋渡しにもなった。かつて韓国のプロ野球は、大学を経由するのが一般的であったが、李承燁が高卒として成功を収めたことで、高校からすぐにプロに入るのが、一般化した。

 李承燁の最後のシーズンとなった今年の成績は、打率.280、本塁打24本、打点87。本塁打は、外国人選手以外では、チームトップの数字で、まだまだやれると思う。最後の試合では、2本の本塁打を放っている。けれども、今シーズンで引退することは、シーズン前から決まっていたことで、サムスンのビジターの試合の各球場の最終戦では、記念のセレモニーが行われた。

 考えてみれば、李承燁ほどのスター選手で、何の後腐れなく、さわやかに去っていた選手も珍しい。

 韓国のプロ野球で、打のスターが李承燁なら、投のスターは宣銅烈や朴賛浩ということになる。

 宣は、中日を優勝に導いた1999年を最後に現役を引退した。本当は、もう少し現役を続けたかったとも言われている。しかし、当時宣は、ヘテ(現KIA)からレンタル移籍の形で、中日で活動していた。再契約する場合、中日が追加の費用を支払うことを、ヘテ側から求められるのなど、関係者の間がギクシャクする中で、現役の続行が困難になったとも言われている。

 宣が指導者の現場に就いたのは、ヘテ時代の監督であった金應龍が監督であったサムスンのヘッドコーチに就任した2004年のこと。翌年から同チームの監督に就任している。

 宣は出身地の光州では、絶対的な存在であるが、地元球団の監督に就任したのは、ヘテからKIAに変わった後の2012年のことである。

 韓国では所属チームのスター選手が、そのままチームのコーチや監督になるというケースは、そう多くない。かつて韓国プロ野球のあるコーチが、「韓国では、選手も球団側も、距離が近くて嫌なところを見過ぎたからだ」と、その理由を解説してくれたことある。

 スター選手という面では、韓国人メジャーリーガー第1号の朴賛浩も特別な存在である。朴のドジャースでの活躍は、韓国人のアメリカ進出の道を開き、柳賢振(ドジャース)や金廣鉉(SK)ら、後輩の選手たちに大きな影響を及ぼした。

 朴はオリックスを経て、2012年に故郷のチームであるハンファに移籍した。そして、その年の11月末に引退発表を行っている。ところが、この年は新生のNC球団発足に伴い、各球団の保護枠(40人)を除く選手を、NCをはじめとする他球団が指名できる、いわゆる2次ドラフトが1122日に行われた。

 朴が進退に関する態度をはっきりしていなかったため、朴は保護選手の40人に含まれていた。そして、若手の有望選手が1人、2次ドラフトを通して他球団に持っていかれた。

 翌年、ハンファのキャンプを取材した時、コーチの1人が、「辞めるのなら、早く言ってくれないと、困るんだよな」と嘆いていた。大物の引退としては、決断の時期が遅かったことで、後味の悪さがあった。

 その点、今回の李承燁は、引退が早過ぎるのではという思いがあっても、引き際としては、ベストに近いのではないだろうか。

 問題は今後である。遠からず、コーチ・監督として、現場に復帰するだろう。ただ監督就任は焦らず、指導者経験を積むことが重要だ。とはいえ、いずれは自分の地位を脅かすであろう、大物コーチを受け入れる監督がいるだろうか。宣銅烈も、そのため現場復帰が遅れた面もある。

 それなら、日本でコーチとしての経験を積むのも、李承燁本人だけでなく、日本や韓国のプロ野球にとって、悪い話ではないと思うのだが。

2017年9月22日 (金)

開幕が近づく平昌に行く(1)平昌は今、工事中

 平昌五輪開幕まで140日となったが、「平昌」という文字は、韓国よりも日本の方で多く見かける気がする。金浦空港やソウル駅などに公式グッズの売り場があるが、立ち寄る人はあまりいない。

 では現地はどうなのか。先週韓国に行く機会があったので、短時間ではあるが、平昌にも足を伸ばしてみた。平昌の今を、2回に分けて書いてみたい。

 平昌には、スケート会場でもある江陵を拠点に回ってみた。江陵には今回が4回目になるが、かつては、山また山を越える、難コースのイメージがある。しかし今回は、新しいトンネルもできて、随分便利になった。

 ソウルから江陵に行った時は、渋滞に巻き込まれて3時間を超えたが、江陵から東ソウルのバスターミナルへは、2時間40分で行けた。かつてに比べると1時間近い短縮だ。途中のトンネルは一部工事中で、赤いランプと警報音が鳴り続けており、軍事施設に入ったような感じがする。

 年末にはKTXも開通する予定なので、山に阻まれ、陸の孤島のイメージがあった江原道も変わっていくだろう。ただそれは、そうした地理的条件ゆえに残っていた、この地域の良さを、消す可能性もある。

 韓国の新聞も見ると、平昌五輪そのものの記事は多くないが、不動産や開発関連の広告はよく目にする。実際平昌に近づくと、新たに開発された地域や、ペンションのような建物が目立つようになった。

 平昌付近の高速道路には、「霧に注意」の看板もあった。スキー競技の開催地である平昌は、霧が多い地域だ。

 江陵など東海岸の地域は、海流の影響もあり、冬場はソウルなどより、気温が高い。しかし、江陵市と平昌郡の境界に位置する大関嶺の山々は、韓国で最も寒い地域の一つだ。狭いエリアで、標高の高低差によるもの以上の温度差があるので、風も強く、霧も発生しやすい。

 私が平昌に行った日は、曇りに小雨のあいにくの天気。それは天気予報で分かっていたので、残念だったが、実際の競技は悪天候の中で行われることもあるので、それを見ておくのも悪くないと、気を取り直して、江陵のバスターミナルから、平昌に向かった。

 開閉会式が行われるオリンピックスタジアムや、メイン会場の一つであるアルペンシアリゾートには、横渓のバスターミナルが拠点になる。

 コンビニと乗車券売り場などが入った小さなターミナルの建物は、まだ真新しい。バスは2台停車するのがやっとで、トイレは仮設という、田舎のバスターミナルといったところだが、江原道内だけでなく、ソウルに向かうバスも発着する、この地域の交通の拠点でもある。

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横渓のバスターミナル

 横渓バスターミナルから、開閉会式が行われるオリンピックスタジアムへは、歩いていける距離にある。スタジアムに向かう途中の歩道は、ほとんどはがされ、新しいブロックを敷き詰める工事が各所で行われている。韓国では土台の工事がしっかりしておらず、敷き詰めたブロックが波打つことがよくある。やるなら、そこはしっかりやってもらいたい。

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 オリンピック、パラリンピックの開閉会式の会場を巡っては、すったもんだがあった。最初はジャンプ会場を予定していたが、小さいとIOCに蹴られ、政府は江陵にある、プロサッカー(Kリーグ)の試合も行われる総合競技場の改築を提案していたが、これでは江陵オリンピックになると、平昌の地域住民が反発した結果、オリンピック、パラリンピックの開閉会式のための、新スタジアムが作られることになった。

 新スタジアムの35000席のうち大半は仮設で、大会後は5000席ほどを残して、イベント会場などに使われるという。

 2014年の仁川アジア大会の時も、ワールドカップの時に使った競技場で開閉会式を行うか、新設するかでもめた末、スタンドの多くを仮設にした、新スタジアムを建設した。

 開会式は国をアピールする絶好の機会であり、面子にこだわる国民性ゆえの過剰投資のように思う。国立競技場を新設する日本も、人のことはあまり言えないが……。

 オリンピックスタジアムの周辺はもともと農村であったことは、歩いてみるとよく分かる。その一方で、都会風の建物が建ち、住宅なのか、リゾートマンションなのか分からないが、アパートの建設も進む。こうした建物が、大会後どうなるか、気になるところだ。

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スタジアムの近くを流れる川の対岸

 オリンピックスタジアムは、仮設スタンドが多い割には、外観は思った以上に立派であった。

 大会中は、様々なイベントが行われる予定とはいえ、パラリンピックの開閉会式も含め、3万5000席のこの施設の晴れ舞台は、4回しかない。スタンドの大半に屋根がないなどの問題があるだけに、施設建設の苦労が報われるかは、お天気次第のところがある。

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 横渓のバスターミナルから、メイン会場のアルペンシアリゾートに行くバスは、現在のところ1日4、5本しかない。ネットで調べると、始発が午前10時であることだけが分かった。そのため、10時のバスで、アルペンシアリゾートに向かった。それについては、次回に記したい。(続く)

2017年9月 5日 (火)

早大と高麗大、意味ある交流の明るくない展望

 サッカーW杯のアジア最終予選は、残り2試合の結果いかんでは、日韓のプレーオフ対決の可能性もあったが、日本がオーストラリに勝って本大会出場を決めたため、なくなった。日韓戦が盛り上がるのは確かだが、今日の情勢を考えれば、負ければ本大会出場の可能性が完全に消えるプレーオフ対決を回避できたのは、良かったと言うべきだろう。

 2日(土)、家からさほど遠くない東伏見で、メディアではほとんど報じられない、日韓の試合があった。野球の早稲田大学と高麗大学の定期戦である。

 日本と韓国を代表する私学である早稲田大学と高麗大学は、1973年に学術交流協定を結び、本格的な交流を始めたが、それ以前から両校の交流は盛んであった。

 サッカーでは、戦前は日本代表選手として活躍した金容植と裵宗鎬は、ともに高麗大学の前身である普成専門を出た後、早稲田大学に留学している。そもそも高麗大学中興の祖であった金性洙は、早稲田大学の出身である。

 野球では、戦前朝鮮半島から早稲田大学に入った人はほとんどいないが、数少ない1人で、解放後は韓国野球のボス的存在であった金永祚は、解放後も、元日本高校野球連盟会長の佐伯達夫や、元早稲田大学野球部監督の石井藤吉郎など、早稲田大学出身のアマチュア野球の大物と交流し、日韓の架け橋になった。そして金永祚の息子は、高麗大学の野球部で活躍した。

 こうしたつながりが、今も続いていることは、非常に意味がある。

 韓国では、20年ほど前までは、大学を経てプロに行くのが当たり前であり、大学野球のレベルは高かった。私がソウルに留学していた1990年代半ばには、後に巨人でプレーした趙成珉(故人)が、長身から速球を投げていたし、少し後には、韓国野球を代表する強打者の金東柱(元斗山)らがいた。粗削りだが、パワフルな野球をしていたことが印象的だった。この夏韓国代表監督に就任した、元中日の宣銅烈も高麗大学の出身である。

 しかし、この20年弱の間に状況は変わり、高校からプロに行くのが当たり前になり、大学では、高校の時にプロに指名されなかったという選手が大半を占めるようになった。

 韓国では911日にドラフト会議があるが、近年は、指名されるのはほとんどが高校生で、そこにメジャーを夢見てアメリカに渡り、挫折した帰国組がちらほら混じるという感じで、大学生はごく少数という傾向が続いている。

 2日の試合では、高麗大学の先発は、先日台湾で開催されたユニバーシアードにおける韓国代表の林亮燮で、キレのあるボールを投げ、立ち上がりと5回に1点ずつ失ったものの、まずまずの投球をしたが、続く投手が打たれて、4-1で早稲田大学が勝利した。

 早稲田大学は、この秋こそは、投手陣の柱としての活躍が期待される大竹耕太郎が、立ち上がり制球が乱れて失点したものの、高麗大学の打線にさほど迫力がなかったこともあり、松本皓、二山陽平の早実コンビに、早大本庄出身の野口陸良とつないで、得点を許さなかった。

 基本的に大半のスポーツの日韓戦は、日本のうまさと韓国の力強さの対決に、試合の面白さがあったが、近年、そうした構図は変わろうとしている。

 今回の試合でも、試合が始まる前と後、ホームプレート前に整列する高麗大学の選手を見ても、体の大きな選手は少なくなったという感じがする。

 そのうえ、昨年の秋以降、韓国を揺るがせた崔順実ゲートの余波で、大学スポーツに対する当局の監視が厳しくなり、大学スポーツはさらに困難な状況に追い込まれる可能性がある。

 日韓関係が思わしくない中、メディアがほとんど注目しなくても、地道に続いているこうした民間交流は非常に大切である。しかし、こうした交流をより意味のあるものにするためには、互いのレベルの高さというのは必要である。

 早稲田大学と高麗大学の交流は、野球だけでなく、サッカーやラグビーなど様々な競技で続いているが、韓国の大学スポーツ界の状況は、そうした交流の先行きに、やや影を落としているような気がする。

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試合前の整列。赤いユニホームが高麗大

 

2017年8月18日 (金)

甲子園大会と韓国の関係

 甲子園の高校野球もベスト16が出そろい、ここから頂点に向けて、大会は一気に進んでいく。この時期、韓国でも高校野球の全国大会が開催されている。韓国日報などが主催する鳳凰大旗全国高校野球大会である。

 この大会の特徴は、地域予選がなく、韓国全ての高校チームが参加することだ。といっても74校。参加校数では、鹿児島大会とほぼ同数である。

 今年のこの大会の開幕戦で、前年優勝のソウルの徽文が、ドジャースの柳賢振の母校である仁川の東山に敗れる波乱があった。

 この徽文高校は、校名が徽文高普であった1923年、今日の全国高校野球選手権大会の前身である全国中等学校野球優勝大会に、朝鮮代表として出場している。この時はまだ球場は甲子園ではなく鳴尾であったが、初戦である2回戦で大連商業を破り準々決勝に進出し、立命館中学に敗れている。

 戦前、日本の支配下にあった朝鮮からも、台湾や満州とともに代表チームを日本の全国大会に派遣しているが、朝鮮人だけのチームは、徽文高普だけであった。

 朝鮮代表として甲子園の土を踏んだチームは、京城中学など日本人中心のチームが多かった。それでも大邱商業(現商苑)や善隣商業(現善隣インターネット)のように、日本人と朝鮮人の混成チームもあった。

 中でも善隣商業は、元は大倉財閥の創設者・大倉喜八郎が創立した学校で、昭和歌謡の巨星・古賀政男も、この学校の出身者である。

 私はソウルに留学していた199394年に、鳳凰大旗の大会をよく観に行った。目的の一つは、97年までは在日のチームも参加しており、その試合を観ることだった。94年のチームのエースは、横浜などで活躍した金城龍彦(当時近大付)で、150キロ近い速球を投げており、準々決勝に進出した。

 と同時に善隣商業など、かつて甲子園大会に出場したことのある学校の試合も興味深かった。当時はまだ、日本の植民地時代に指導を受けた人も健在で、チームの雰囲気も、何となく日本の高校チームに近いものがあった。

 今は頭髪など、日本と近い点もなくはないが、ユニホームの着こなしや、スタイルなどで、日本とはかなり違ってきている。韓国の野球関係者の中には、日本の高校野球のマナーの良さを見習ってほしいという人もいるけれども、韓国には韓国の歩みがあるので、それはどうこう言うことではない。

 甲子園大会と韓国の関係においては、日本に留学し、日本の学校の選手として出場した人も、非常に重要である。

 平安中学(現龍谷大平安)の内野手として活躍した朴点道や京都商業(現京都学園)の内野手として活躍した姜大中は、解放後は韓国代表の選手や監督として、韓国野球の発展に貢献した。

 横浜商業の内野手であり、主将としてセンバツに出場した崔寅哲は、解放後は大韓野球連盟の会長など、韓国の野球協会の役員として、長年韓国野球の発展を支える一方で、日本高校野球連盟の会長だった佐伯達夫らとの交遊を通して、野球の日韓交流にも貢献した。崔は2007年に89歳で亡くなるが、元気なころは、夏の甲子園大会をほぼ毎年のように観戦し、日本の野球関係者との旧交を温めた。

 ただ、崔寅哲が亡くなってから、その代わりとなって日本と交友する人材がおらず、疎遠になったような気がする。

 2009年、野球のアジアAAA選手権(U18)の取材でソウルに行った時、大韓野球協会の関係者から、日本高校野球連盟の会長と、日本野球連盟の会長の名前を教えてほしいと頼まれたことがある。それだけ、互いに向き合うことが少なくなったということだろう。

 近年日韓関係が冷え込む中でも、若い世代を中心として、新たな日韓交流は行われている。それはそれでいいことだが、野球の例に限らず、昔から続いていた日本と韓国の関係は、どうも途切れがちのように思う。

 8月の中で、15日が重要な日であることは日韓ともに同じだ。しかし日本は、終戦、敗戦の日であり、お盆と重なっていることもあり、慰霊に重きを置いているのに対し、韓国は解放の日であり、お祭りムードである。

 ただ植民地支配の時代を知る人が少なくなる中、日韓ともに、その時代のリアリティーがなくなり、自分たちに都合の良い歴史認識が、それぞれで独り歩きしているように思う。

 日本と韓国は、今までも行き違いやナーバスな問題は多々あったものの、互いに交友関係を積み上げてきた。時代が変わっても、その積み重ねは、大事にしなければならない。

 高校野球の話からやや飛躍したが、スポーツを通した日韓交流の歴史を取材してきた立場から、その思いは強くある。

 

2017年8月 9日 (水)

軽くなる一方の韓国マラソンの存在感

 今から25年前の199289日、バルセロナ五輪の男子マラソンは、韓国の黄永祚と日本の森下広一が、「心臓破りの丘」と呼ばれたモンジュイックの坂道で激しい優勝争いを繰り広げ、黄永祚が勝ち優勝した。マラソンの歴史に残る名勝負であり、この当時、日本と韓国のマラソンは、世界をリードしていた。

 ただひたすら前を見て走る黄の姿は、鬼気迫るものがあった。当時の心境を黄に聞いたことがあるが、「どんなレースでも死ぬ気で走っています。健康のために走るのではない。一つの戦場です。一等は一つしかない。そのためには、死ぬ覚悟で走らなければならないのです」と、語っていた。

 まだハングリーという言葉が生きている、最後の時代だったと思う。黄の金メダルは、韓国の国民を勇気づけた。

 現在ロンドンで開催されている世界陸上の男子マラソンでは、日本も韓国も不振であった。

 それでも日本は川内優輝が9位、中本健太郎が10位、井上大仁が26位であった。韓国の3選手の成績は、59位、64位、65位で、完走が71人なので、完走したことを良しとしなければならない成績だ。

 女子も日本は清田真央が16位、安藤友香が17位、重友梨佐が27位で、韓国の3選手は、34位、38位、54位だった。ちなみに北朝鮮のキム・ヒギョンは日本勢より上位の15位に入っている。

 リオ五輪の男子マラソンで韓国は、カンボジア代表として出場した猫ひろしと最下位争いを繰り広げ、問題になった。今回に関しては、韓国のメディアもマラソンをほとんど報じない状況にある。

 韓国でマラソンは、特別な存在である。日本の植民地支配下にあった1936年のベルリン五輪のマラソンでは、日本選手団の一員として出場した孫基禎が金メダル、南昇龍が銅メダルを獲得した。それは朝鮮半島の人たちにとっては、民族の快挙であったが、と同時に、植民地支配の悲哀を感じさせるものだった。

 そのため韓国でマラソンは、「民族の魂を受け継ぐ競技」とか、「歴史の痛みを物語る競技」などと言われてきた。バルセロナ五輪の英雄・黄永祚も、そうした話に刺激を受けて、マラソンを始めている。

 1947年のボストンマラソンでは、徐潤福が優勝、朝鮮戦争勃発直前の1950年の同大会では、韓国人選手が1、2、3位を独占している。大韓民国として政権が樹立されて間もない韓国の存在を、いち早く世界に広めたのもマラソンであった。

 朝鮮戦争後、韓国のマラソンは長期の不振に陥るが、1988年のソウル五輪に向けての強化が、4年遅れで実を結び、黄永祚の金メダルにつながった。

 黄永祚の後は李鳳柱が受け継ぎ、1996年のアトランタ五輪では銀メダルを獲得したが、その後が続かなかった。

 韓国では健康のための市民マラソンの人気は高まっている。しかし黄永祚の言葉にもあるように、健康のために走る市民マラソンと、競技のマラソンは、はっきりと区別される。

 一昔前なら、競技団体や企業、国などの支援不足が問題になっただろうが、「公務員ランナー」の川内優輝の活躍は、そうした言い訳の余地を与えない。

 もっとも川内の場合、学生時代は箱根駅伝を走った経験のあるアスリートなので、韓国ではまず誕生しえない存在である。

 ソウル国際マラソン(東亜マラソン)などでは、外国人選手の順位と、韓国内の選手は別々に掲載され、報道の内容をみても、大会の優勝記録で、記録を出しやすいマラソンコースの優秀さを誇る記事が目立ち、韓国選手の結果には、それほどこだわっているようには思えない。

 韓国では日本以上に結果が全てであり、サッカーや野球などの国際試合で負けると、バッシングを受ける。それでもバッシングを受けるうちは良いが、無視されるようだと、事態は深刻だ。

 今回の世界陸上において韓国で最も注目されているのが、男子100メートルの金国栄だ。20106月、31年間破られなかった韓国記録を更新し、今年に入り、記録は1007まで短縮された。今回の大会では、韓国では初となる準決勝進出を果たした。

 ただし金国栄にしても、国内に競争相手がおらず、孤独のレースを繰り広げている。韓国は世界陸上のトラック種目で、決勝に進んだ選手はいない。

 6年前大邱で世界陸上が開催されたが、ボルトのフライング以外、ほとんど忘れられようとしている。

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7月は高校野球の東西東京大会の取材に追われた。今年は早稲田実の清宮人気もあり、例年とはかなり様相が異なった。

3年後の同じ時期に東京で五輪が開催される。夏の暑さには慣れているはずの高校球児すら、熱中症で足が吊ったりする選手が多かった。暑さもさることながら、湿度、蒸し暑さも特別だ。選手やスタッフはもちろん、観客にも、ボランティアにも、報道陣にも過酷な大会になりそうだ。マラソンのコースを周回コースにして、コースの徹底した低温化を図るなど、シティセールスのメリットが軽減しても、あらゆる対策を講じる必要があると思うのだが。

 

2017年7月 6日 (木)

成果は如何に、韓国の高校生投手酷使対策

 この週末から首都圏をはじめ、各地で甲子園を目指して地方大会が開幕し、今年も高校野球の夏が本格的に始まる。

 高校野球で常に問題になるのは、投手の酷使だ。力のある投手が故障で力を発揮できず敗れたり、プロや大学で故障により野球を辞めたりするケースを数多く見てきた。

 日本高校野球連盟などでは、公式戦では理学療法士が待機し、試合後投手の肩肘のケアをサポートしている。まだ正式決定はされていないが、来年のセンバツからは、延長タイブレーク制が導入される可能性が高い。

 では韓国ではどうなのか。韓国では日本以上に、若手投手の故障が深刻だ。以前も書いたが、高校生の時に注目された投手が、故障で投げられず、なかなか若手投手が出てこない。そのことが、近年の韓国プロ野球の打高投低現象の要因になっている。

 そのため2014年からは、高校野球の公式戦では、投手が1日に試合で投じる球数は、130に制限された。130を超えるとカウントの途中でも交代する。そして130球を投げると、3日間は投手として試合に出ることができない。ただし、ノーヒットノーランや完全試合の記録がかかっている時は、安打を打たれるまで、続投することができる。

 さらにプロ野球機構であるKBO(韓国野球委員会)と大韓野球・ソフトボール協会は専門家チームを設け、対策を引き続き練っている。両団体は619日に公聴会を開き、1日の投球数を105に制限、投球数による投球禁止期間のガイドラインの制定、酷寒期(12月から翌年2月中旬)の練習試合の禁止、などの案が提示された。

 冬季の練習試合は、日本では禁止されている。韓国の場合、北海道や東北、山間部の地域などを除けば、日本より寒いので、なおさらである。

 とはいえ、韓国では3月下旬から公式戦が始まる。3月下旬だと、昼でも10度以下という日がざらにある。10度以下の状況の公式戦に投げようと思えば、氷点下の状況で投球し、準備しないと間に合わない。それが、韓国の投手が肘を痛める理由の一つだと、ある韓国プロ野球の指導者から聞いたことがある。

 韓国の高校チームは、一番多いところで部員が65人。少ないところだと16人しかいない。球数制限が厳しいと、試合にならないという反対意見も少なくない。

 日本でも球数制限の話をする人もいるが、やはり部員数が少ないところだと無理だという意見に加え、プロで野球をしようとしている人は、高校球児の中のごく一部で、高校で野球を辞める人も少なくない。そのため球数制限は、日本の状況に合わないという声が多い。

 一方韓国では、全体のチーム数が近年増加しているとはいえ73チーム。登録部員は2764人で、基本的にプロもしくは、大学でも野球を続けることを前提にしている。そのため、監督が投手を酷使すると、人権問題とみなされることもある。

 韓国では近隣地域のチーム同士による週末リーグに加え、全国大会が、韓国の国体である全国体育大会を含め6もある。日本の場合は夏の大会が最高権威の大会であることははっきりしているが、韓国の場合はどの大会が、権威があるかは、はっきりしない。ただ全国大会の成績で大学のスポーツ特待生の権利を得ることができるので、結果を残すまでは、多少無理せざるを得ない傾向がある。

 もっとも、球数さえ制限すれば、故障がなくなるかといえば、そう単純ではない。

 東京の関東一に高橋晴という、プロも注目する大型投手がある。彼は高校入学後も成長期が続いたため、米澤貴光監督は、負荷のかかるトレーニングを制限したり、投球もずっと我慢させたりしてきた。成長期の子供には、成長に見合ったトレーニングや投球制限が必要である。また投球前の準備と投球後のケアも重要である。

 韓国の場合、6月に各プロ球団の本拠地地域の高校生(出身者)を1人優先指名するのに続き、8月半ばにドラフト会議が開かれる。

 プロに指名された選手に対してはプロ球団から高校側に、できるだけ投げさせないように要求されることがある。そのため、U18のアジアや世界選手権では、重要な試合で力のある3年生でなく、2年生が投げることが多い。

 それにより高校の大事な時期に、十分な実戦経験を積めないこともある。さらに投げ過ぎは問題だが、投げることによって得られることもある。

 いずれにしても韓国球界は、高校生投手の球数制限の動きを本格化させている。日本と韓国では環境に違いがあるものの、その成果がどう出るのか、あるいは出ないのか、日本でも十分参考になるのではないか。

78日から始まる高校野球の東西東京大会の取材のため、ブログはしばらく休みます。

 

 

2017年6月30日 (金)

スポーツは置いてきぼりの平昌五輪

 今週も平昌五輪と北朝鮮の問題について書きたい。

 2010年の冬季五輪の韓国内候補地を巡っては、1997年に冬季ユニバーシアードを開催した全羅北道・茂朱と、1999年に冬季アジア大会を開催した江原道・平昌の争いになった。結局平昌が国内候補地になり、2度の落選を経て、2018年の大会の招致に成功した。平昌が茂朱を破った背景には、平昌は北朝鮮に近く、北朝鮮との交流の期待があった。国内候補地争いに敗れた茂朱は、国技・テコンドーの殿堂であるテコンドー園の建設候補地に選ばれ、テコンドー園は3年前に完成した。

 624日にテコンドー園でテコンドーの世界選手権が開幕した。しかし、話題の中心はテコンドーではなく、平昌五輪であり、北朝鮮であった。別の見方をすれば、平昌五輪の北朝鮮絡みの話があるゆえに、テコンドーの世界選手権が注目されたとも言える。

 開幕式で文在寅大統領は、「1991年に初めて南北単一チームを構成し、最高の成績を収めた世界卓球選手権と世界ユースサッカーの栄光をもう一度見たい」「南北選手団が同時に入場し世界の人たちから拍手喝采を受けた2000年シドニー五輪の感動をもう一度感じてみたい」「平昌五輪に北韓応援団も参加し、南北和解の転機になればいい」などと発言した。

 これに対して、開幕式に出席していた北朝鮮の張雄IOC委員は、東亜日報系のCATV局であるチャンネルAのインタビューで、「政治的環境を解決しなければなりません。政治はいつもスポーツの上にあります」と答えている。話の良し悪しはともかく、北朝鮮の立場ならそうであろうという発言だ。

 さらに張雄委員は、韓国側から提起されている共同開催や、女子アイスホッケーの南北単一チームについて、「私はオリンピックの専門家ですが、既にもう遅いです。共同開催というのは言うのは簡単だけど、実務的問題が簡単ではありません。アイスホッケーなどを単一チームにする問題もそうです。千葉の卓球世界選手権の時、会談は22回でした。5、6カ月かかりました」と語っている。

 これは実務者の立場からすれば、当然の意見である。韓国側の実務者に聞いても、同じことを言うであろう。つまり、文在寅大統領の発言にしても、先週書いたスポーツの所轄官庁である文化体育観光部の都鍾煥長官の話にしても、スポーツ界の意見を聞いているとは思えない。政府が現場を顧みず、自らの希望を語っているという感じだ。

 また所轄官庁は、文化体育観光部という名前こそ残ったものの、スポーツ系より文科系の意向が強いようだ。都長官も詩人である。1993年に体育青少年部(旧体育部)と文化部が合体して文化体育部になって以降、この省庁ではスポーツ系と文科系の綱引きがしばしばあった。

 思想は個人個人で違うし、必ずしも当てはまらないケースもあるが、スポーツ系は右派政権、文科系は左派政権に近い傾向がある。韓国のエリートスポーツの制度を作ったのは、朴正熙政権と全斗煥政権である。左派の金大中が政権に就くと、スポーツ関連の支援は削られ、文化に力を入れるようになった。そのことが、韓流を起こす契機になったという側面もある。

 それでなくても、崔順実ゲートに巻き込まれたことで、スポーツ界の発言力が弱まっているところに、左派政権の誕生で、スポーツ界は置いてきぼりのまま、平昌五輪の準備が進んでいく感じだ。もっとも、それ以前もスポーツ界からの発言は、あまり聞こえてこなかったが……。

 スポーツ大会としての具体的なイメージがないまま、政治家の理想論だけが聞こえてくる。応援団にしても、冬季五輪では活動の場は多くない。

 北朝鮮の応援団といえば、演奏に合わせて、歌い踊り、「我々は一つだ」など、スローガンを叫ぶといったスタイルだ。けれども、現在出場権を得るのが有力視されているフィギュアスケートのペアの競技で、そうした応援ができるのは、製氷時間くらいだ。

 2003年の大邱ユニバーシアードの飛び込み競技では、「北の応援団、静かにしてください」という場内アナウンスがあり、北朝鮮の応援リーダーが憮然としたということがあった。冬季五輪でも、似たようなことになる。

 事実上、開閉会式のために作られるオリンピックスタジアムで、公演をすることもあるだろう。しかし、そうなると公演料を求められるはずで、北朝鮮にそうしたお金を支払うことは、今の国際情勢では、認められないだろう。

 平昌五輪を通して南北交流を図るにしても、現実をしっかり見据えないといけない時期だ。ただキム・ヨナの引退により冬季スポーツで国民的なスターがいない状況では、話題作りは今のところ、南北絡みの話くらいしかないのも、一方の現実である。

 

 

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