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2018年10月 3日 (水)

祭りの後③~仁川アジア大会から4年―忘れられた祭典

 ジャカルタ・アジア大会が終わり1カ月になるが、日本では閉会式の放送もなく、いつの間にか終わったという感じがする。閉会式の翌日、私は韓国に行った。韓国ではCATVを中心に、連日大会の名場面の再放送やハイライト放送がされていた。アジア大会に対する、メディアの扱い、関心は、韓国の方が日本より大きい。

 今回、日本が獲得した金メダルが中国に次いで多い75個であったのに対し、韓国は49個。日本は1994年の広島大会以来24年ぶりに、金メダル数が韓国を上回った。ただ広島大会では、大会が終わった時点では韓国の方が多かったが、大会後、中国選手の薬物違反が発覚し、日本が繰り上げで金メダルを獲得して上回ったという経緯もあり、韓国では、敗北感はそれほどなかった。

 しかし今回は、1986年のソウル大会で初めて韓国の金メダル獲得数が日本を上回ってから初の完敗であり、韓国の金メダル獲得数が50個以下になったのは、82年のニューデリー大会以来36年ぶりのことだった。

 けれども93日付の『スポーツソウル』に、「24年ぶりに総合3位に再び落ちたのに、世の中は静かだ」と書かれているように、騒いでいるのはメディアばかりという感じで、韓国内ではそれほど問題になっていない。

 その一方で、オリンピックのメダリストと、アジア大会の優勝者は兵役が免除されるが、大会後、この兵役免除が大きな社会問題になっている。この件については、いずれ詳しく書こうと思うが、問題の根底にあるのは、アジア大会の優勝が、兵役の免除に値する程、国威発揚、別の言い方をすれば、国家に貢献したかと疑問が、国民の間に大きくなったということだろう。

 北朝鮮との代理戦争の様相を呈していた70年代、日本に追いつき追い越せのスローガンを掲げながらも、日本との差は多くの分野で歴然としていた中で、スポーツだけは日本を凌駕した80年代、アジア大会での活躍は、韓国の国民に勇気を与えるものだった。

 そして、韓国で初めて開催された国際的な総合スポーツ大会である1986年のソウル・アジア大会、北朝鮮が韓国で開催されるスポーツ大会に初めて参加した2002年の釜山大会は、大きな関心を集めたが、アジア大会開催は3回目となる、2014年の仁川大会では、韓国の人たちは冷めていた。

 それでも開催自治体である仁川市は、力を入れていた。仁川には、サッカー・ワールドカップやアジア陸上選手権で使用された約49000人収容の文鶴競技場があるが、仁川市は開閉会式会場となる新スタジアム建設にこだわった。結局、仁川国際空港に近い、仁川市の西側に、約62000人収容の新スタジアムが建設された。ただしバックスタンドは仮設で、大会後は撤去されることになっていた。

 あのスタジアムは、今どうなっているのか。4年ぶりに訪ねてみた。

 スタジアムには、仁川地下鉄2号線のアシアード競技場駅か西区庁駅から歩いて15分ほどの所にある。もっとも、地下鉄2号線が開業したのは、アジア大会が終わって2年後の2016年。大会中はシャトルバスも出ていたが、開閉会式では台数が足りず、徒歩で1時間近くかかる仁川国際空港線の黔岩駅まで歩く人も多くいた。

 大会中に開業していれば、便利だったはずだ。とはいえ、釜山アジア大会のメインスタジアムや野球、水泳、体操の会場などがある総合運動公園への足となる釜山地下鉄3号線が開業したのは、大会3年後の2005年。ソウルオリンピックの主要会場と、漢江の北側を結ぶオリンピック大橋が開通したのは、大会翌年の89年だから、その辺は、「ケンチャナヨ」なのかもしれない。

 仁川アジア大会のメインスタジアムの南東方向にあるGate2はメディア関係者の出入り口であり、よく覚えている。今回行ってみると、Gate2に向かう途中見えていた聖火台やバックスタンドは既になく、「LOTEE CINEMA」の文字が目に入る。

 私は映画館のチケット売り場や、ロビーまでは入ったものの、その先の構造は分からない。ただし大会中は、スタジアムの南側スタンドの下は、メディアのワーキングルームのほか、事務室や倉庫などがあった。そうした場所が、映画館になっているのだろうか。

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アジア大会中、聖火台などがある

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現在。赤い「LOTEE CINEMA」の文字が目立つ

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アジア大会中のスタンド南側

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仮設スタンドなどが撤去された現在

 バックスタンドの北側であるスタジアムの北東側エリアは、結婚式場になっていた。こうした事後利用は、ワールドカップのスタジアムなどで、よくみられる。

 バックスタンドを撤去したスタジアムは、随分風通しが良くなった感じがする。もっとも、このスタジアムは海に近い。海側には、高層のメインスタジアムがあるけれども、陸上競技は風に敏感なだけに、問題があるのではないか。もっとも、大韓陸上連盟のHPを見た範囲では、陸上の競技会自体、ここではそれほど開催されていないようだ。         

 メインスタジアムの一角には、記念館がある。大会のメダリストの名前が書かれたボードなど、大会を振り返るこの記念館で目立っていたのは、新体操の妖精と言われた孫延在のおそらく等身大と思われる人形と、野球の韓国代表が金メダルを獲得して表彰台に上がる場面の特大写真である。

 孫延在は、朴槿恵前大統領の友人の崔順実の側近が考案した体操の披露会に、朴前大統領とともに参加してバッシングを受けた。

 野球の韓国代表は、ジャカルタ・アジア大会でも金メダルを獲得したが、兵役逃れの批判を受け、彼らもバッシングを受けている。こうした展示を見ていると、仁川アジア大会は、わずか4年前のことだが、随分昔のことのように感じられる。

 仁川アジア大会の時は、できるだけ多くの競技会場を回るようにした。その中で、特に印象に残っているのが、重量挙げ(力道)の会場になった、タルピッチュクチェ庭園力道競技場である。タルピッチュクチェとは、月光祭という意味だ。

 松島という埋め立て地にあるこの競技場は、仁川地下鉄1号線の終点である国際業務地区駅から徒歩10分少々の所にある。

 駅から地上に出ると、道路の周りは、草が生い茂る荒れ地が広がる。荒れ地の向こうにぽつんと立つ大きなテントが競技場である。

 この大会で北朝鮮は、重量挙げで男女合わせて4個の金メダルを獲得しており、連日大勢のメディアが詰めかけた会場でもある。

 競技場はテント式で、スタンドは仮設。関係者の控室や、記者会見場などはテントの周辺に幾重にも作られたプレハブの建物にある。これは大会が終われば、さっさと撤去されるのだろうと思っていた。 

 今回、4年ぶりにその場に行ってみたが、会場となった大きなテントは残っていた。周囲のあったプレハブの建物も、大半は撤去されていたが、一部は残っていた。

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大会中の重量挙げ会場の外観

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現在の様子

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大会中の重量挙げ会場の中

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バスケットボールコートになった現在の姿

 しかしながら、テントの中を覗いてみると、中はバスケットボールのコートになっていた。特に標識があるわけではないので、この場所でアジア大会が開かれ、北朝鮮選手の活躍で注目されたということを知る人は、やがていなくなるのだろう。

 平昌オリンピックでもそうだが、韓国は大会が注目されればそれでOKで、施設をどう残すかということには、さほど関心がないように思える。重視されるのは、スポーツの利用価値であり、文化的な価値ではないように思える。

 しかしそれは、日本も五十歩百歩なのかもしれない。2年後に迫った東京オリンピックに関しては、レガシーという言葉が盛んに使われている。ただ、旧国立競技場を取り壊す経緯や、オリンピックを契機とした神宮外苑の再開発の話を見ても、これまで積み重ねてきたものに対する敬意は感じられない。東京オリンピックが終わった後、大会はどう伝えられていくのか。日本のスポーツ文化の成熟度が問われることになる。

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