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2018年7月 6日 (金)

韓国野球の発展に寄与した東京の元球児

 71日、うだるような暑さの中、高校野球の東西東京大会の開会式が行われた。第100回の記念大会である今年は、過去夏の甲子園大会に出場した31校を先頭に入場行進が始まった。ただ、夏の大会の優勝校となると、これに帝京商業(現帝京大高)が加わる。

 帝京商業は、1939年の第25回、41年の第27回の東京大会で優勝しながら、2回とも甲子園には行けなかった。第25回の時は、未登録の高等小学生がいたためとなっている。

 実は未登録の高等小学生とは、後にフォークボールを武器に日本球界を代表する投手になる杉下茂氏である。話は複雑なので割愛するが、杉下氏にすれば、大人の事情に振り回された形での出場辞退であった。

 そして第27回大会は、戦時体制下に入り、大規模な軍事演習(関東軍特別大演習)を行うため、輸送機関は軍事優先となり、野球に限らず、全国規模のスポーツ大会は中止になったからだ。

 それでも東京大会は行われ、決勝戦では帝京商業が京王商業(現専修大附属)に14-0で圧勝して優勝した。この試合の5番打者には、帝京商業は三塁手の金光、京王商業は中堅手・投手の高澤という選手がいるが、2人とも韓国人であった。

 創氏改名で日本名になっているが、金光が金永祚氏であり、高澤は高光籍氏である。

 金氏は早稲田大、職業野球の朝日軍を経て、戦時中に祖国に戻った。解放後の祖国で金氏は、韓国代表の捕手や監督として韓国野球の発展を支え、韓国野球では親分的な存在であった。韓国代表の一員として来日した時には、帝京商業の後輩である杉下氏とも会っていた。

 高氏も解放前後に祖国に戻り、慶南中学(高校)の監督を務めた。韓国では「ノックの達人」と呼ばれ、鍛え上げた守備で慶南は、解放後に産声を上げた中等野球の全国大会で軒並み優勝した。

 関係者の証言によれば、高氏は祖国に戻ってからは、京王商業の人とは会っていないようだ。また高氏の日本での球歴については、韓国ではほとんど知られていない。

 帝京商業は当時幡ヶ谷にあり、京王商業は明治大の和泉校舎の近くにあり、2人は練習試合などでも対戦していた。また高氏は後に高麗大の監督になったが、その時、金氏の一人息子の金承洙氏も入部している。それでも承洙氏は、父親と高監督が日本で知り合いであったことを、知らなかった。いずれにしても、金永祚氏と高光籍氏は、解放後の韓国野球の発展の基盤作りに多大な貢献をしたことは間違いない。

 歳月は少し流れ、1956年から在日僑胞学生野球団の祖国訪問試合が始まる。これは主に甲子園大会に出場できなかった在日の高校球児でチームを作り、8月に韓国で試合をしたもので、形を変えながらも1997年まで続いた。張本勲氏も58年の第3回の祖国訪問に参加している。

 57年の第2回の祖国訪問に投手兼外野手として参加した荏原(現日体大荏原)の裵寿讃氏は、高校時代は東京大会で敗れ、甲子園には1度も行けなかった。在日への差別もあり、就職もままならず、祖国に活動の場を求めた。

 裵氏は韓国代表の外野手として活躍し、プロ野球・OB(現斗山)の二軍監督なども務めた。ただ本人は韓国で野球をする一方で、両親は帰還船で北朝鮮に渡っており、反共国家であった韓国で、つらい思いもしていた。

 日本と朝鮮半島、さらに朝鮮半島の南北対立は、日本と韓国を行き来した彼らの人生にも影を落とした。けれども、今日の韓国野球の隆盛に、金永祚氏や高光籍氏や裵寿讃氏らが、重要な役割を果たしたのは確かだ。

 かつて在日外国人といえば、その多くは韓国系か中国系であったが、今日では多国籍化している。今では両親とも、あるいは両親のどちらかが外国出身という選手も珍しくない。中には野球がそれほど盛んでない、東南アジアやアフリカにルーツを持つ選手もいる。

 野球文化の根付いていない国に野球を広めるのは容易ではないし、人それぞれに事情もあるだろう。それでもいつの日か、ルーツの国に野球を広め、日本との架橋となる選手が1人でも現れれば素晴らしいことだと思うし、そうしたことを助ける日本球界であってほしい。

※なお、高校野球の東西東京大会の取材のため、7月中はブログを更新しない予定です。

 

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